寧日雑考 第32号 旨い面白い不思議 2017.10.18
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分析哲学に嵌まって以来、かれこれ20年ほど悩み続けている。

なかでも意識や認識の謎については、先代メールマガジン「雑考400」の
第24号「木が倒れた」第40号「夕焼けの色」
第178号「私という意識」第257号「養老氏講演2」などに書いた。

特に、私という意識の不思議さについては「この世に自分が存在する奇跡」
を感じ、崇高な思いさえ抱いていた。

自分の存在に奇跡を感じてしまうと、次は愛する妻や子供達への想いに
繋がり、やがては、生命誕生の神秘、宇宙開闢の謎へと、止めどなく
広がってしまうのが道理だ。現に私の畢生課題13のうち3つは、
「自然・哲学・数学」の理解で、
さらに「自然」は「宇宙・生命・意識」の3つの細目に分かれている。
寧日雑考 第30号「渋滞学」

ところが、つい最近、土屋賢二 氏の「あたらしい哲学入門」を読み、
20年来悩み続けた考え方の枠組みを、あっさり変えられてしまった。

土屋賢二 氏と言えば、お茶の水女子大で哲学を教えているツチヤ教授で、
「哲学者かく笑えり」「われ笑う、ゆえにわれあり」などのエッセイの
名手という認識しかなかったので油断していた。

私が、土屋賢二 氏の「あたらしい哲学入門」を読んで了解したことは、
・旨いと思うこと、面白いと思うこと、不思議に感じることは、全て
 個人の趣味。
・疑問や不思議と思う事物には、答えのあるものと答えのないものが
 混在しており、例えば、空はなぜ青いのか? という問いは、
 答えのない問いである。
ということだ。これにはやられた。目から鱗である。

身も蓋もなく言えば、私は20年来、趣味で不思議がっていたのである。
つまり、旨いと思って美味しがり、面白いと思って面白がる。
同様に、不思議と思って不思議がる、ということだ。

私は、栗、南瓜、芋、昆虫が苦手だ。一生食べなくても生きて行ける。
しかし世間には、これらを好んで食べる人が大勢いる。私には理解出来
ない。また、私は納豆を好んで食べるが、関西出身の家内は納豆をヒトの
食べ物とは思っていない。更に、家内が好きだという最近流行りの
パクチーは、“ドクダミとカメムシを足した成分から構成される”と確信
しているので、私は決して口にしないし、近づきもしない。これを美味
という感覚は、私にとっては極め付きの理解不能で、正に、
蓼食う虫も好き好き、である。以上は嗜好の問題なので共感は絶望的だ。

私は、運動は体に悪いと確信しているので決してやらないし、スポーツ
全般に興味もない。運動の好きな人間が、好きなだけやれば良いと思って
いる。しかし、マラソン、トライアスロン、六甲山自転車縦走、ロック
クライミング、冬山登山、ボクシング、サーキットレースなどは、
何が楽しくてやっているのか理解不能だ。自己実現、達成感、限界を
越える喜びなどがあるのかも知れないが、いずれも極めて苦しそうだし、
体調や不慮の事故で死んでしまう運動である。これにも理由などは無く、
当人が面白がってやっているのだ、と了解した。
理由が無いから、スポーツの面白さを私には理解・共感できない。

同様に、私が「夕焼けの色は対象と自分の共同作品である。すると実在の
世界など存在しないという結論になる。これは常識を覆す驚愕の事実だ。
いったい私はどうしたらよいのだ」などと不思議がり、且つ面白がって
いることを、家内には共感して貰えないのである。

なに、私としては後は只管、堂々と不思議がり、面白がれば良いのだ。
私には前途洋洋たる、極めて明るい未来が広がっていることを確信した。
だから分析哲学はやめられない。
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横浜市 橋本 好次(はしもと よしつぐ)
mail:monburu@nifty.com   http://zak400.zatunen.com/
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( 「寧日雑考」は、自由・不定・記録 を方針とした考察です。)
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