寧日雑考 第31号 「物語」について 2017.09.23
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寧日雑考 第11号 洗脳 で、

『本能が壊れた動物であるヒトは、本能の代替物として
  共同幻想=疑似現実=開いたプログラム
 という諸刃の剣を獲得した。
 開いたプログラムを持ったヒトは、
 己の欲望から他者を殺し、原爆を落としながらも、
 現在まで何とか生き延びてきた。』

と書いた。

これに関連して、私の中で漸く形になった考察を書く。
それは「物語」について、である。

ヒトは、虚構と噂話と闘争の中で生きている、と私は永く感じてきた。
具体的には、ドラマとゴシップとスポーツである。
そしてこれらは、ヒトの生き甲斐と思う。

私自身で言えば、SF・時代・推理・社会派などの小説を読み、
SF・サスペンス・アクション・アドベンチャーなどの映画を好んで観る。
これらは、全部作り話である。
中にはノンフィクション、ドキュメンタリーを謳っているものもあるが、
事実それ自体に、普通ではない作り話のような面白さがあり、更には
部分的演出もある。

噂話には殆ど興味が無いが、自分または家族に、何かしらの影響が
あるものは、つい見聞してしまう。最近では、言葉と行動の矛盾で
話題になった女性国会議員達の醜聞だ。(今○某、豊○某、山○某)
彼女達は清き一票の重要性と人間の性(さが)を再考させてくれた。

また、身体に悪い運動(≒スポーツ)には、まったく無関心だが、
代わりに、哲学・論理・ロジカルシンキングにはとても興味がある。
この裏には、議論に勝ちたい、という闘争心の存在を自覚している。
勝つことに快感を覚えるのは生存本能に根ざしているのかも知れない。

本能が壊れたヒトは、その代替物として共同幻想・疑似現実を作り、
今のところ絶滅を免れている。共同幻想は、所詮作り物なので、
不具合が大きくなったら作り直せば良い。とは言え、自分一人だけで
作った場合は「共同」幻想ではなく、狂人となる。

疑似現実の中で事柄を理解するには、解釈が必要だ。
そして解釈するための道具が「物語」である。
一番厳密で客観的な物語は、自然現象を言葉にした法則で、
その次が法律、その後に常識・良識と続き、世論・雰囲気・噂話が
来て、一番対極にあるのが妄想である。
道徳、宗教、主義、思想、学説などは、法則と妄想の間に入る。
少し考えれば分かるとおり、妄想に近いものも少なくない。

ほぼ本能を失ったヒトにとって物語は必須なのだ。
だからドラマとゴシップに親しむことは、物語を使いこなすための
私的な訓練とも言える。

一方、闘争はヒトに残された数少ない本能の一つである。
そして闘争も疑似現実の中で物語と一体不可分となり、物理的、
社会的、心理的な攻撃となって現れる。
大きくは国家間の、小さくは組織間、個人間の闘争である。
これも少し考えれば身近に溢れていることが分かる。

本能が壊れ、開いたプログラム=共同幻想=疑似現実 を
持たざるを得なくなったヒトは、つくづく面倒な生き物であると思う。
しかし、だからこそ、物語をこよなく愛し、生きる意味を考える。

人生は物語、虚構である。マトリックスや杜子春(芥川龍之介)の世界と
本質的には変わらないのである。

因みにこのような、どうでも良いことを考えられるのは、衣食住と
安全と思想の自由が確保されているからだ。これは極めて重要な
前提条件であり、恵まれていることに感謝しなければならない。

そして平和呆けは戦争を生むことに気づかなければならない。
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横浜市 橋本 好次(はしもと よしつぐ)
mail:monburu@nifty.com   http://www.geocities.jp/monburu/
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( 「寧日雑考」は、自由・不定・記録 を方針とした雑文です。)
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