雑考400 第324号 民主主義を疑う 2002.3.31
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民主主義・基本的人権・国民主権、いずれも現代に於いては疑う余地のない概念だろう。
欧米先進諸国はもとより、日本でも憲法の基調として重要な柱になっている。国名だけ見
れば共和制としての中国、そして北朝鮮でさえも使っている。更に紛争地域では復興の基
本理念にもなっていると思う。その普遍の原理とも言える民主主義(=デモクラシー)が本
家のヨーロッパでは「いかがわしい言葉」として出発していると言う。長谷川三千子 著
文春新書「民主主義とは何なのか」11頁から(これは福田欽一 氏の著「近代民主主義とそ
の展望」岩波新書 の冒頭からの引用)『「ところで、本家のヨーロッパの場合はどうであ
るかといいますと、実はここでも民主主義という言葉ははなはだいかがわしい言葉であっ
て、それが間違いなく正当な言葉、いい意味をもった言葉として確立したのはこの第一次
世界大戦のときであったのであります」』そして長谷川氏は212頁の「結語 理性の復権」
で次のように言う。少し長くなるが引用する。
『 結局のところ、民主主義(デモクラシー)とは何なのかと言えば、それはその名の通り
のもの──民衆(デーモス)が力(クラトス)によって支配権を得る体制──である。それは
「われとわれとが戦う病い」から生まれ出て、しかも、その病をどこまでも引きずり続け
るイデオロギーである。近代民主主義の理論として世の中に受け入れられている「国民主
権」「人権尊重」といったものも、実はすべて、「われとわれとが戦う病い」を正当化す
るために拵え上げられた理窟にすぎないのであって、その中身がいかにインチキで無理無
体のものであるかということは、いま見てきたとおりなのである。
しかし、だからどうだと言うのだ、と反論する人もあろう。民主主義が革命によって生
まれ、革命を引きずり続けているというのは、糾弾すべきことであるどころか、民主主義
が「反体制」「権力批判」の原理であることの証であって、むしろ大変結構なことではな
いか──そんな風に言う人も少なくないであろう。
実際、ひとたび「反体制」「権力批判」といった言葉を自明の大前提として据えてしま
うと、そこには一種の「革命礼讃の思考回路」といったものが出来上がって、その回路を
抜け出してものを考えるということが不可能となってしまうのである。たとえば、かつて
日本の多くの大学で全共闘運動とうものが嵐のように吹き荒れたとき、多くの学生達がは
まり込んだのも、その「反体制」という閉じた思考回路なのであった。彼らは自らを「ラ
ディカル」と称して、その回路の中心をどれだけ早く、どれだけ激しく走れるかを競い合
ったのであるが、そこで唯一つ、彼らが決してしようとしなかったのは、その「反体制」
が"なぜよいのか"を根源的(ラディカル)に問いかける、ということであった。<略>
一口に言えば、民主主義とは「人間に理性を使わせないシステム」なのである。
そして、そのことが、革命から生まれ出てきた民主主義の持つ最大の欠陥であり問題点な
のである。』
この結語に至る論証の過程は緻密で説得力がある。僅か 230頁の新書だが本格的な論考で
ある。中でもフランス国家「ラ・マルセイエーズ」の残忍で血なまぐさい血みどろの歌詞
「武器をとれ、市民よ 隊列を組め 進め、進め、
汚れたる(敵の)血をもて われらが田畑を潤さん
勝利よ、その男々しき響きをもて駆け付けよ
瀕死の敵どもが 自由の勝利とわれらの栄光を見るように」
そして著者がペテン師と断定するジョン・ロックのインチキ理論、トマス・ホッブズが規
定した人類の悲惨なる自然の状態「つぎからつぎへと力をもとめ、死によってのみ消滅す
る、永久不断の意欲」などが印象に残った。
長谷川氏の主張を私が理解した形でまとめると「民主主義・人権からは、自分の意見の
主張と相手に対する説得しか出てこない。これは議論の最も堕落した形で、結局、自分の
意見のごり押しに過ぎない。そして最後は力の行使としての多数決で終わる。本来必要な
のは理性の謙虚さ−自らの主張を「自分から」疑ってみる−で、そこから全く新しい答え
が出てくる可能性がある」となる。これは 310号「批判」に通ずるものがあると思う。
長谷川三千子著「民主主義とは何なのか」(文春新書)は”民主主義そのものを疑う”とい
う私にとっては驚異の視点を与えてくれた貴重な一冊である。
※今回は400字を大幅にオーバーしましたが、了承願います。
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