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     寧日雑考 第5号 三つ子の魂百まで 2016.02.27 
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    私事だが、今年(2016年)の誕生日で自分が54歳になることに気づいた。 
    私が新入社員だった1985年当時は55歳定年だったから、その頃なら 
    来年が定年という年齢だ。振り返れば、光陰矢の如し、酔生夢死の一途である。 
    そして驚いた。 
    主観的には、自分が新入社員当時から変わっていない、と感じるからである。 
    もっと言えば、中学生の頃から変わっていない、とも思う。 
    もちろん体力や視力は落ち、元来スマートではなかった体型が一層球体に近づいた。 
    10年前の写真と比べても、我ながら、老けたなと思う。 
    変わっていないのは意識である。 
    三つ子の魂百まで、とはこのことを言うのだろう。 
    「唯脳論」「バカの壁」の養老孟司 氏流に言えば、 
    死んで(=生きていない)カチカチに固まっているのが情報であり、 
    反対に常に変わるのが生きているという事で、それが自然である、 
    となる。情報と自然を対極に置いて考えるのだ。 
    養老氏は次のように確言する。 
    ・情報は目まぐるしく変わって、常に動いているように見えるが、 
     実は固定されたものだ。 
    ・ニュース番組の録画も、自分の講演のDVDも、100年経ってから見ても、 
     全く変わらない音と映像が流れる。それが情報。 
    ・一方、生身の方はどんどん変わり、老化して行く、信じられないだろうが、 
     白髪の爺である私も、昔は赤ん坊だった。それが自然。 
    言われてみれば、その通りである。 
    「生物と無生物のあいだ」の著者 福岡伸一 氏によれば、 
    生きているとは、動的な平衡状態を維持している状態である、と言う。 
    動的平衡とは、揺らぎながらも、一定の枠内で形や機能を保持している、 
    という事だろう。 
    ヒトは自然であり、生き物である。生きているから常に変わる。 
    一方、意識は言葉であり、言葉は情報、即ち死んだ(=生きていない)ものだ。 
    生身の自分は変わるが、意識は自分が変わらないと思い続ける、 
    この矛盾は、自然と情報の関係に由来するのだろう。 
    ここまで書いて、ふと思いだした。私は性格診断テストが苦手だ。 
    自分の好き嫌いや、意見・考え方の傾向が、その時の体調や気分で変わる。 
    だからはいつも回答に悩み、どちらとも言えない、ばかりを選んでしまう。 
    これは、自分のことさえ理解できない、優柔不断の表れか、と長年考えていた。 
    そうではなく、生身の自然と意識の情報とのせめぎ合いなのだと理解した。 
     # 余談だが、昔の成人は「おとな」だった。親父には威厳があった。 
     # たぶんやせ我慢もしていただろう。(腹は出ていたが) 
     # 私が、子供達から威厳を持ってみられているかどうかは甚だ疑問である。 
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